2019年04月04日

新年号騒動に躍らされて思うこと

いよいよ4月を迎えた。平成最後というフレーズが飛び交うのもあとひと月の辛抱。改元に向けて、話題が新年号に取って代わられてゆくのか、さらに希少価値を増してゆくのかはわからないが、いずれにせよ平成もあとひと月である。こう世間、というか、メディアこぞって改元の話題一色では如何ともしがたいが、それはある意味恐ろしいことではある。そんなことで、今回は少しばかり思うところを書いておきたい。

令和、確かにレイワという語感は悪くはない。漢字としての見た目も整っている。しかし、対句という訣でもない初春令月の令と、気淑風和の和をくっ付けて何の意味があるというのか? 何というか、非常に感覚的で表面的な軽さを感じてしまう言葉である。一応典拠はあるにせよ、いかにも現代的な、キラキラネームと根は同じように思う。
また、令にはどうしても命令の意味、使役のニュアンスが付きまとう。普通に漢文として読むなら、返り点を打って、和せしむ、すなわち無理に協調させる、ということになる。あるいは、和語として頭から順に読み下すならば、令に和す、ないし令に和せ、である。命令、法令に従え、ということである。りょう、と読めば、それはまさに古代の行政法に他ならないのだ。

新年号の発表で印象的だったのは、自ら会見に臨んだ一国の首相の姿だった。あまりにも幼稚ではしゃぎ過ぎと感じたのはぼくだけではあるまい。官房長官に任せて事務的に済ませばよいことなのである。それをわざわざ自ら意味の説明までして見せる。初めての国書由来の年号だと強調して見せる。それが首相の仕事か? いったいこの人は何を勘違いしているのだろう。他にやるべき事はないのだろうか? ありがたい年号を自分が国民のために決めてやったとでも思っているのだろうか? まあ、大方の予想のように、自分の苗字の一文字を使うほどに厚顔無恥ではなかったことだけで、良しとせねばならないのか? どこかで書いていたが、首相が出しゃばるほどに、年号の存在感は軽くなってゆく。
もちろん年号には罪はないし、ここまで政治的に利用されると気の毒でさえある。しかし、新年号発表の前後で支持率が随分上昇したという報道があった。まさに統一地方選の最中である。結果論だという見方もあるかも知れないが、これが政治利用でなくてなんであろうか。多分当人にしてみれば、政治的に利用しようなどという高尚なことを考えての行動ではないのだろう。まことにおめでたいというか、お恥ずかし話であるが、だからこそなおさらに質が悪く罪が深いのである。こんなことで踊らされていてはならない。非常に後味の悪い新年度のスタートとなってしまった。

ぼくはもう使うつもりもないけれど、次の改元を生きて迎えることはあるのだろうか? 今度天皇になる方とは全くの同い年だから、まあ五分五分というところだろうが、もしもまだ制度を続けるというのなら、せめてもう少しまともな公表方法、そして何よりも決め方であってほしい。そうでなければ、いくら首相自ら力んでみたところで、けっして真に身近な親しめる存在にはなり得ないだろう。
年号制度の悲劇は、あえて言うなら、近代以降、一世一元となって天皇制と不可分の存在になってしまったことにある。ただ、今回の騒動を見ていると、年号が本質的に政治的なものであることがよくわかる。今では即位改元だけになった訣だけれど、それ以前に頻繁に行われた祥瑞の出現による改元にしても、自然災害などを契機とする改元にしても、結局は政治の刷新に究極の目的があることに変わりはない。そのことを我々は身を以て経験させられたのであった。

そこまで考えてこの時期に公表を設定したのかどうかは定かではない。そうであればかなりしたたかであるが、いずれにせよ改元のもつ本質的な意味、いわば術中にはめられてしまったことは間違いない。新年号騒動に躍らされたのかと思うと、内心忸怩たるものを感じる。
せめてそうした経験、疑問を踏まえ、気を取り直して週末の選挙に望むしかない。そう思うと、一昨晩行った期日前投票の鉛筆を握る手にも、思わず力のはいったことであった。選挙でしか意思表示をする術をもたない、いや選挙によって意思を示すことができるのである。
ラベル:日常
posted by あきちゃん at 22:39| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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