2019年04月19日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その5)

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その4)よりつづく)
耳鳥─沼耳 イタヤカエデ/コノハズク 根小屋
耳取洞窟から出て昼食を終えた午後は、今夜を過ごす沼耳の根小屋に向かう。道々洞窟の闇とそこで聞いた声のようなものを反芻しながら、モノミミとは修験者の一部が転じたものではないかと秋野は確信する。秋野が強調する、現地に足を運ぶことの重要性には、ぼくも深い共感を覚える。たとえ実態が失われていても、それがかつて存在した場所のもつ意味は変わらない。時間はずれていても、空間を体験することは、それがかつていかに存在していたかについての大事な情報になり得るのだ。
秋野と梶井君は、善照さんの地図に出てくる生繰沼の脇を通って沼耳の根小屋に下った。梶井君が水を汲み米を研ぎに出行ったあと、一人残された秋野は、焚き付けになる木を拾いに夕闇の森に出る。耳取洞窟の闇を思い出しながら、暗い森の奥へ奥へと足を踏み入れると弾力のある腐葉土に吸い込まれていくようで、まるで林の底に沈んでいく思いを味わうのだった。

こうして闇の底へ沈みつつ分け入るうちに、秋野は亡くなった許嫁と過ごした時間に紛れ込んでしまうのである。前の前の章で龍目蓋からウネさんの紹介で波音の梶井家を訪ねる途上、僅かに数行挟み込まれた異次元の時空が、始まりは何気ないが、ここで大きくぽっかりと口を開く。まるで、耳取洞窟の闇の奥に導かれるかのように。うまくは紹介できないけれど、なくなった許嫁と共有したかけがえのない時間に、秋野はしばし浸るのである。
彼女との間にあった途轍もなく純度が高く透明で、触れば切れるほどの極めて伝導率が高い媒質が満たしていた二人のみの共有する空間! これだけの形容で表現される、二人が共有したガラスのように繊細で乱反射を起こす物質に満たされた時空での出来事を、梨木さんの言葉以外で表現するのはおよそ不可能だ。梨木さんの鮮やかな筆致が冴える場面である。残念だが、これ以上はヘタな紹介はすべきではないだろう。

突然、林の向こうから梶井君の呼ぶ声がして、秋野も読者も現実、つまり元の時空に連れ戻される。小屋に戻った秋野は、梶井君の起こしていた蚊遣りの香りに神経を呼び覚まされる。梶井君と食べたキジよりは大雑把な味の、彼が鳥肉の言った肉の入った雑炊はうまかった。
心地よい沈黙のなか、コノハヅクの声が響き渡ってゆく。それは現世の時間を生きていないような響きを感じさせ、聞くうちに秋野はまた時空をたゆたい始めるのだった。今はいったいいつなのか?
梶井君と善照さんが残した地図に描かれていた寺院の話をする。それは梶井君も知らない世界だった。善照さんは蔵王院という坊にいたという。
最後に良親の防塁と呼ばれる石垣が話題になる。それは途方もない労力をかけて築かれたものだった。なんの目的で?
その問いは、梶井君に何故自分はこの島にいるのかという根源的な問いを無意識のうちにかきたてたようだった。それは秋野にとっても同じだったのだろう。それは梨木さんが海うそにおいて読者に突きつける問いでもある。人は本人の意志にかかわらず気が付けば生まれている。場所を選ぶ自由はない。その選ぶ自由があったところまて遡って、自分がいまここにいる理由を知りたいという思い。
渓全体に響きわたるコノハヅクの声は、紛れもなく秋野の眠りの道行きにまでついてくるのだった。

本章に登場する生き物たち
タブノキ/葛/イタヤカエデ/ヒグラシ/ダイダイ/タチバナ/トビウオ/ボコウ(蕈)/キジ/コノハヅク/ノミ
登場する時点では生きていないものも含まれているけれど、だからといって書き落とすのも忍びなくて、全部挙げておく。

さて、前回も書いたことだが、今年はどうも季節の道行きがおかしい。昨日はようやく20℃を超える陽気になったが、まだ普通の春とはどこかが違う。
平城宮跡のサクラも、ヤマザクラの見頃が過ぎつつあるというのに、まだ満開を過ぎたソメイヨシノが咲き残っている。どちらも咲き方がどことなく遠慮がちでぎこちなく、様子を見ながらという風があって、ぱあっと開かぬままに散り始めているように見える。その散り方にしてもそうだ。バラバラでまとまりがないのだ。咲き方にそんな違いが生じ得るものなのだろうか、ある意味今年のサクラのはたいへん奥床しいように思う。どう咲いたら良いのか悩んでいるような、戸惑いも感じられるのである。
たまたま日中平城宮跡に出る機会があって、いつもの第二次大極殿裏を通りかかったら、なんだか様子がいつもと違う。片側だけ咲いているように見えるのだ。近付くとそうでもないのだが、どうも咲き終わりのタイミングが、同じ木なのに枝によってずれているようなのだ。

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〔平城宮跡のサクラと若草山〕
日当たりの加減なのだろうか、北側がまだ満開状態なのに、南側は葉桜に近くなっている。普通なら、あとから開いた部分も先に開花したところに追いついて全体が満開を迎えるのだろうが、今年はどうもそのタイミングを逸してしまったようだ。散る方も思い思いの趣だ。
こんなこともあるんだなと、不思議な光景にしばし見惚れてしまったが、いや待てよ、これはこれで良いのかもしれない。それぞれが思い思いに自分の花を咲かせる。それが個性というものだ。そうした個性が集まって大きな個性が生まれる。それでいいではないか。そう思い返すと、散り始めた今年のサクラが無性に愛おしくなった。
今回もまた季節の移ろいを含めての紹介となった。秋野と梶井君の遅島踏査は次第に核心に近付いてゆくが、また改めて。
ラベル:日常 読書
posted by あきちゃん at 20:28| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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