2019年06月22日

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その8・完)─うそ越えの先にあるもの─

梨木香歩さんの『海うそ』を読む(その7)よりつづく)
五十年の後
敗戦を挟んで50年経ったあと、秋野は思いもよらぬ契機で、再び遅島に向かうことになった。ヨーロッパにツアー旅行に出かけた秋野の妻寛子に、父親の様子を確認するように言われた次男の佑二が、遅島から電話をかけてよこしたのである。遅島でレジャーランド開発が始まり、佑二はそれに携わっていた。
遅島に本土から橋が架かったことは、それより前にニュースで知っていた。しかし、変わる前に行きたかったとは思っても、その時は遅島を再訪しようとは思わなかった。しかし、息子の佑二がその開発に関わっていると知ると、秋野はまるで引き寄せられるように翌朝にはもう遅島に向かっていた。論文の形で成果をまとめることができなかった50年前のフィールドの変化を、自分の目で確かめずにはいられなくなったのである。
遅島では全てが変わっていた。引っかき傷のようだった周回道路は二車線の立派なものに変わり、本村の雛壇のような素朴な家並は、本土のどこにでもある小さな菓子のような家になっていた。胎蔵山は石灰岩の採掘で無残な姿を見せ、紫雲山には草スキー場が計画され、ロープウェイもかけられるという。尾ノ崎湾の断崖上にも建物が建設中で、良信さんの石切場の穴は埋められてしまっていた、呼原はゴルフ場に造成されつつあり、かつてヤギに食い荒らされていたハマカンゾウが、そのヤギを牧場に集めて観光に一役買わせることになった結果、皮肉なことに見事に復活していた。良信さんの防塁は一部破壊されていたが、そのあまりの異常さ故に壊し去るには気味悪がられてか、完全な破壊からは免れていた。
遅島を案内する佑二に、秋野は日の目を見なかった論文の構想を語る。二つ屋の存在形態の解釈である。秋野は自分の論文の結論になるはずだった見通しについて、山根さんにそれが唯一の結論ではないことをいとも簡単に突き付けられ、それが何気ない会話で自然に飛び出してきたからこそなおさら、論文を書き上げることができなくなってしまったのだった。しかし、50年の時を経た今、息子を前にして、秋野は新しい見方が提示できることに気付くのだった。

§           §           §

山根さんの二階屋があった地には、星見蔵という展望台が建てられ、今はさしあたり開発の事務所として使われていた。秋野は佑二にそこに案内される。最初はそれと気付かなかったが、まさに50年前と同じ場所にいることを秋野は確信するのである。しかし、あったものがない。確かにここにあったのだ。それが今はない。50年いったい自分は何をしてきたのか、という思いに、秋野は駈られるのだった。
事務所で島の立体模型を見せられながら、島の地形や歴史に想いを馳せ、開発工事で縄文土器が出た話を聞くと、縄文人たちも海うそを見ていたのかも知れないとふと思い、少しだけ救われる気持ちを味わうのだった。50年の変化に目を奪われがちだが、縄文時代以来変わらないものもあるのだ。
そんな思いの秋野は、佑二から島のある場所で見つけたという彼が大事にしまっていた木切れを見せられる。何か字が書かれている。それは「吾都」(あと)と読めた。ここから秋野は、この木切れが「波音」(はと)が、落ち延びてきた都を思う平家の末裔たちの気持ちが凝結した地名である証拠となることを、直ちに直感するのである。50年前に梶井君から与えられながら解答を出せなかった示唆、それにようやく結論を導くことができたのである。書けなかった論文の最後のピースが埋まったのを秋野は感じていた。
何気ないけれど、文字の書かれた木切れ、すなわち木簡に端的に語らせるこのアイテムの使い方、これには唸らされた。小説に木簡が登場したことがかつてあっただろうか。木簡が小説のアイテムになるとは! まさに梨木さんの知性が光る。

§           §           §

電話から戻った佑二が、沼耳にキャンプ場ができる話をし、ミミとつく地名の多さに驚いた話をする。秋野は自分がかつて取り組もうとしたこの島にかつていたモノミミのその悲劇的な結末について、佑二に語る。自分で見た訣ではないモノミミの身の上に起きたことが、自分の記憶の中に、今ではしっかりと存在していることを秋野は感じた。しかし、それもまもなく自分がこの世を去れば、いずれ確実に跡形もなくなるはずである。
佑二に誘われ、お茶を飲みに展望台に上がって椅子にかけると、いつかこれと同じ景色を見るのを体験したような気がしてくるのだった。デジャヴュ、既視感を抱く感覚である。一瞬何が起きたのか戸惑いながら、次第にここが山根さんの二階屋の居間があった場所に違いないことに気付くのである。そうだ、佑二の位置にかつては梶井君がすわっていたのだ! 一体自分は今どこにいて、今とはいつなのか?
佑二が見せてくれた木切れの文字によって波音の地名の由来に確信が持てたことで、50年間の重荷を下ろす目処がついた安心感も手伝ってのことであったのだろう、山根さんの二階屋のあった場所で佑二と語りあいながら、ふと50年前の境遇が話題になる中で、妻にも話したことがなかった雪山に登ったまま帰って来なかった許嫁の自死のいきさつを、秋野は佑二に話すのだった。
わかっているような気がしていてわからないもの、いやわからないことがわかっていた事柄に囲まれて過ごしてきた50年だったという思いに浸る秋野に対し、佑二が言った、父さん、それは応えただろう。その何気ない言葉に、秋野はふっと50年間抱え続けてきた重荷が軽くなったのを感じるのである。まさか、息子に救われるとは。

§           §           §

彼らが海うそ、つまり蜃気楼に出会ったのは、その直後のことであった。秋野は50年ぶり、佑二も蜃気楼が出ることは聞いていたが、本物をじっくり見るのは初めてだった。海うそ、山根さんが言っていた父君善照さんがよく口にしていたというその言葉を、秋野は島を再訪しその変貌ぶりに驚く過程で久しぶりに思い出していたのだったが、その実物に、山根さんの二階屋がかつてあった場所で出会ったのである。論文のピースの発見といい、重荷からの解放といい、秋野には思いがけないことが次々と起きようとしていた。
海うそを見ていた佑二がふと、きれいだなぁ、とつぶやく。秋野は不意打ちを喰うのである。それはかつて梶井君に対して抱いた感覚に近いものがあるように思う。全く自然体の子どものような感覚、それは秋野が持ち合わせていない、彼とは全く対極にあるものだった。先程許嫁の話への反応といい、海うその捉え方といい、息子の佑二がこんな感覚を持ち合わせていようとは!
良信さんはなぜ防塁を築いたのか。島の変貌を見せられるにつれ、秋野はそれが再び気になってきていた。何から何を守ろうとしたのか? 失われていく記憶を守るために、侵食してくる時間(とき)に抗おうとしたのか? 佑二の無邪気ともいえるけれど、本質を突く言葉が、秋野に追い打ちをかけた。
佑二はさらに続けて言う。良信さんの防塁は、この海うそを現実のものとしようと試みたものなのではないかな? どこか異国の地でこれと同じようなものを作った人がいて、それが写っているのかも知れないな。
常識的には、良信さんの防塁が蜃気楼の正体とされるのだけれど、50年前と全く変わらぬ姿を見ていると、良信さんもこれと全く同じ海うそを見ていたのかも知れないと思われてくる。
変わらぬものは海うそだけなのだ。秋野は縄文人も海うそを見ていたのかも知らないと何気なく述懐していたが、まさにそうなのだ。しかもそれは幻であって実態のない、過去か、現在か、未来か、いつを写したものかもわからないものに過ぎないのだ。
良信さんはそれを見て、自分でも何のためにそうするのかもよくわからぬまま、何かに取り憑かれたように防塁を作り続けのだった。秋野は改めて幻を現実にする途方もない行為に感嘆するのである。
佑二の言葉にハッとして、そんなことを考えるうち、何が実態で何が幻なのかわからなくなってくるのだった。

§           §           §

しかしそうしたことを反芻するうちに、秋野は気付くのである。かつては、なくなったことに対し大きな喪失感味わうのが常だった。しかし、時の経過を重層的に捉えればよいのではないか? 喪失とは、降り積もる時間が増えていくことなのではないか? 時間の陰影を重ねることで、実在の輪郭が片鱗を帯びて輝き始める。実在が輪郭をなし始めるからこそ、喪失もまた浮かび上がってくるのだ。
秋野はこうして、色即是空の続きが空即是色だった事に今さらながらのように気づかされるのである。
色即是空、空即是色
空即是色に気付けば、その先に実在=色と、喪失=空とが、互いに互いを際立たせている不即不離の関係にあることに気付くのは、容易なことであろう。空即是色は、再び色即是空に戻る、両者はいわば循環し続けるのである。秋野は空即是色を身をもって体験したのである。
人生そのものが、時間を積み重ねることで無から実在するものを作ることなのではないか、そうした終わりのない旅路なのではないか、そう梨木さんは秋野を通じて読者に語りかけているようである。
思い出すのは、人間その人よりも、その人の作り出したものに、その人をよく示していることがある、そう秋野が岩本さんの握った握り飯を評していたことである。秋野は、山根さんがふと漏らしていたように、50年前にもう何もかもわかっていたのである。ただ、わかっていることに気付いていなかっただけなのであった。

§           §           §

喪失感を乗り越えることのできた秋野は、今までずっと解決できずにいたもうひとつの課題に対しても解決の糸口を見出すことができたのであった。
許嫁はなぜ自殺したのか? 秋野と許嫁になったことに原因があるのではないか、その疑いに気付いてはいても、それを払拭しながら今までの人生を歩んできたのだった。しかし、今や秋野は素直に許嫁の気持ちを理解することができるのを感じていた。時間の陰影を重ねることで、実在の輪郭が輝き始める。
こうして浮かび上がっできた許嫁の姿を、秋野は真っ直ぐに客観的に見つめることができたのである。それは秋野にとっては辛い結論であり、なぜあの時許嫁の気持ちに寄り添ってあげられなかったかという悔いだけは如何ともし難かったけれど、50年間背負い続けてきた重荷を今ようやく下ろす思いを味わったのである。
うそ越えをして、そう善照さんはよく言っていたと、山根さんは語っていた。遅島の地図にも見え、各地に類例のある獺越の意味を、秋野は今朧げながら感じ取っていた。
実態のあるものは必ずなくなる、有は無に帰する、色即是空なのであり、秋野がこれまでの人生に感じていた自分の愛するものが必ず失なわれるという思いは、けっして特別のものではない、共通普遍の真理なのだった。
その一方で、そうした喪失の積み重ねが実在の輪郭を形作る、失われた時間の総体が陰影を帯び輝き始める、空即是色ななのである。前回の遅島の訪問から50年の人生を重ねてくる中で、ずっと解けずにもがき続けてきたものが、一度に結び目がほどけるように、解けていくのを秋野は感じていたのだろう。
人生はうそ越えそのものなのである。うその向こうにあるまこと、それへの長い長い旅路なのだ。その先に何があるのかは誰にもわからない。しかし確かなのは、失われた時間の堆積が実態を形作ること、それに気付けば、喪失は何ら恐れるに足らないのだ。
物語は、龍目池をじいさんとばあさんがたらいの船に乗って温泉に通う月夜の晩の光景が、秋野の脳裏にフラッシュバックされて終わる。海うその物語は、循環して始まりに戻るのである。

§           §           §

海うそが終わってしまった。50年後のことよりも、遅島探検をもう少し続けてほしかったという思いもあったけれど、今こうして読み終えて、最後の数頁で圧倒的な感動を味わい、そんな思いは吹き飛んだ感じだ。50年前の遅島探検は、物語の主題にとっては長い長い伏線に過ぎないのかも知れない。
けっして多作ではないけれど、一つひとつがキラ星のように輝く作品を生み出して来られた梨木さんは、これからどんな方向へ読者を導いてくれるのだろうか? 海うその前段の軽みと、それを踏まえた後段のけっして重くならない深みと、これらがこれからさらにどう発展して行くのか楽しみだ。
そう思っていたら、今年待望の次の作品が刊行されていたのに気付いた。『椿宿の辺りに』(朝日新聞出版)である。『f植物園の巣穴』を踏まえた作品である。よくよくよく考えれば、なるほどと思うが、これは意外、盲点であった。梨木さんの作品は、独立して存在しているのはもちろんなのだが、それぞれが複雑に呼応しあっていて、梨木香歩という個性的な作品を形作っているのである。こういう個性が同世代の作家にいることを僭越だが誇らしく思う。
『海うそ』は買ってから実際に手に取って読み始めるまで、随分と長い長い間寝かせてあった。その間、大江健三郎さんの世界に没頭していたことにもよるが、それ以上に『海うそ』を読み終えてしまうのが怖かったのである。読む前から何をと思うかも知れないが、期待の高い本とはそんなものなのである。早速入手はしたものの、『椿宿の辺りに』はいったいいつ読み始めるのであろうか?
posted by あきちゃん at 00:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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