2017年05月14日

バーンスタイン=ニューヨークのマーラーの3番のこと

少し前に、マーラーの3番の最終楽章について、若い頃はバーンスタインの粘っこい表現が好きだったが最近は、という趣旨のことを書いた。しかし、あとになってよく考えてみると、本当にそうなのだろうかという疑問が浮かんできた。それというのも、バーンスタインでマーラーの3番を聴いたのはLP時代のことで、CDを持っているわけではなかったから。今聴いたらどう聞こえるだろうか、同じ印象をもつのだろうか。
あの頃新譜のLPは2,800円というのが普通になっていた。廉価版でも1.200円とか1,500円とかで、レギュラー版は2,200円、2,300円というのが相場だった。マーラーの3番は当然2枚組であるから、4,000円を切るようなレコードはなかったのではあるまいか。バーンスタイン以外では、クーベリック、ショルティ、レークナー、ノイマンといったところで、演奏の種類も多くはなかった。
ところが、CD時代に入って輸入盤が手軽に入手できるようになって久しく、ことにボックス物の隆盛が著しく、かつての名盤が、LP時代では考えられなかったような値段で手に入るようになった。かのバーンスタイン=ニューヨーク・フィルハーモニックのマーラーの全集が3,000円を切る値段で買えるのである。まことに隔世の感がある。

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そんなわけで、久しく耳にしなかったバーンスタイン=ニューヨークのマーラーの全集の入手を思い立った。届いた箱を開けてみると、それぞれオリジナルのジャケットを用いた紙ケースに収められた12枚組のセットである。1番や4番、それに10番は、バラでLPを持っていたから、なつかしいジャケットにめぐり会えて感慨もひとしおだった。3番はこのジャケットには見覚えはなく、ぼくの買ったのは緑色のジャケットだった記憶があり、再版されたものだったのだろう。
3番は、入手したCDでも2枚に分かれていて、1枚めが1楽章、2枚めが2楽章から6楽章という割り振りになっている。LPでは1楽章が片面に収まりきらず、楽章の途中で裏返したような気がする。1枚目のB面に1楽章の続きと2楽章、2枚目のA面に3・4楽章、B面に5・6楽章という割り付けだっただろうか。
CDが届くや最初に聴いたのは、邪道は承知で2枚目のそれも第5楽章からだった。LP時代の割り付けに影響されているといえばいえるだろうが、第6楽章には、第5楽章の少年合唱と鐘の明るい響きの余韻がどうしても必要なのである。
第5楽章が終わり、間を置いて弦楽合奏が静かにメロディーを奏で始める。ああこの静寂ななつかしさに溢れる響き、これでこそマーラーの3番の最終楽章だ! ゆったりと奏でられる音楽は、遅いけれどもけっして粘らず押しつけがましさがない。しっとりと輝くひとなつこい響き。まるで真綿のように優しく包み込んでくれる子守歌のようだ。
バーンスタイン=ニューヨークフィルハーモニックのマーラー第3のジャケット.JPG
〔バーンスタイン=ニューヨークフィルハーモニックのマーラー第3のジャケット〕


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遅ければいいというものではないのだ。例えば、バルビローリの演奏がある。タップリと歌わせるが、バーンスタインのような子守歌とはほど遠い。よしあしではなく、バルビローリ節満開のこぶしを利かせた粘りに粘った演奏だ。音楽に浸るには最良かも知れないが、これはバルビローリの音楽であって、マーラーではないと感じてしまう。しかもこの演奏の場合、ある地点から急にテンポが上がるのである。これがために、それまでの部分をためにためていたという感じなのである。
もう一つ、ケーゲルの演奏がある。これはタイムからいうと、バーンスタインよりもなお遅い(バーンスタイン25:09に対し、ケーゲルは27:24。ちなみにシューリヒトは20:56)。しかもその遅さが感覚的に際立つのである。バーンスタインは遅い中にも余裕があって、どっぷりと浸っていられるけれど、ケーゲルはピンと張りつめたものがあって、聴いていて消耗する部分が大きいのだ。ただ、ケーゲルは何故か一箇所だけ、一瞬の爆発という感じで、短調の部分で走ってしまうところがある。ライヴならではというよりは、これも計算し尽くされたものなのだろうか。ケーゲルの演奏も素晴らしいのだけれど、正直言って疲れる。
バーンスタインは最後までゆったりとしたテンポで押し通す。そこに一つも押しつけがましさが感じられないのはいったいどうしてなのだろう。あくまで爽やかで清潔で暖かく、憧れに満ちた音楽なのである。この演奏を知ってしまうと、もう他は受け付けなくなってしまうのである。

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バッハのカンタータを聴き比べて、全く別の曲に聞こえるような演奏でも、それぞれの持ち味として認めることができる。年を重ねたことで、固定観念から解放された聴き方ができるようになったのかも知れないと思ったものだ。しかし、バーンスタインのマーラー、この3番の最終楽章に関する限り、それは全くの錯覚であった。この演奏を聴いていると、他の演奏はもうないに等しいと思えてしまうことを改めて知ったのであった。本当に魔法をかけられたような演奏だ。もちろん、シューリヒトの淡々としていながら滋味溢れる演奏は大好きである。ケーゲルの遅さを実感する演奏にも尽きない魅力がある。先に書いたバルビーローリの癖のあるちょっとわざとらしい演奏もいいと思う。しかし、バーンスタインの演奏のもつ、何と言えばよいか、強いて言うなら磁力のようなものには抗しがたいのである。これを聴いている限り、他の演奏が入り込む余地は残っていない。それは本当に文字通り魔法というしかない。
それは終結部に入って、弦のさざ波に乗ってトランペットが主題を奏で始める部分(バーンスタインの18:30付近から)に特に顕著に表れていると思う。ここはLP時代にも心を揺さぶられた部分だったけれど、30年を経てCDで聴いてもなお、大袈裟ではなく涙なしには聴けなかったのだった。
タグ:CD 音楽
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2017年05月09日

昨年と同じ日同じ山の違う景色

昨年と同じ日に唐笠山を訪れた。1年前に同じコースで登っているのに、とんと記憶が定かでない。どこでお昼を食べたかすら覚えていない。現地に行ってみれば思い出すのに、行くまで記憶に上って来ないのである。
この景色を忘れていたのか……。東に開けた地点に腰を下ろして弁当を広げながら、おかしやら情けないやら。でも、この展望を見られるのなら、もう何もかも忘れても構わない、そんな気持ちになるほどの眺望だった。
行く手の道に沿って、右側に180度の展望が開ける。稲村ヶ岳が指呼の間に見え、手前を蹴られているが、バリゴヤがギザギザの頭だけちょこっと顔を出しているのがかえって異様である。手前に赤い鉄塔が目印の天和山から滝山への尾根。アイゼンを付けて二度登った思い出の山である。奥には頂仙岳から巨大な弥山に向けてせり上がって行く山塊、そして八経ヶ岳。さらに右手には釈迦ヶ岳らしき高峰も姿を見せている。なつかしい山々!唐笠山への道から大峰の山々を望む.jpg
〔唐笠山への道から大峰の山々を望む〕

でも、昨年とどこかが違う。何が異なるのだろう……。そう、緑色の淡さである。昨年はもっと緑が濃かった。新緑というよりは初夏に近い生命力の満ち溢れていた。それに対し今年は、緑というよりも黄緑に近く、もっと景色がやわらかい。それに、そこここに点在する薄桃色! そう、今年はまだヤマザクラが咲き残っているのである。まだまだ春真っ盛りなのだ。新幹線から見たあのヤマザクラがポッと点る光景を空から眺めている……。ヤマザクラが点る山々、今年はまだアセビも満開.jpg
〔ヤマザクラが点る山々、今年はまだアセビも満開〕

異なるのはそれだけではなかった。まだ何かが昨年と違う。見慣れていると思っていた景色だが、昨年はあの弥山・八経の高峰の頂は雲をかぶっていたのだ。しかも山襞は今年と違って、うっすらと白色を帯びていたはずだった。緑の濃さとは対照的に、昨年は直前に訪れた寒気によって、あろうことか雪化粧をしていたのである。昨年のいわばちぐはくな自然の造形とは異なって(そのちぐはぐさも自然のなせるわざそのものには違いない)、今年は遅い季節の歩みそのままに彩られているのだった。
考えてみれば、昨年は天辻峠手前の土砂崩れによる通行止めのため、天川経由で訪れたのであった。今年は、まだ復旧工事は続いているものの、開通した正規のルートによって行って来ることができた。2年続きで同じ日に同じ山に登る、年による季節の歩みの差によって、これほどにも違う景色が出現するとは! 当たり前のことではあるものの、自然の造形の不思議さに、改めて心を打たれたのだった。
タグ:季節 奈良
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2017年04月23日

今年のサクラの美しさについて

長女がiCloudの共有写真に、近所で撮ったという見事なヤエザクラの写真をアップしてきた。あまりに見事なので、こちらも家のそばの街路樹の間に1本ポツンと生えている白いサクラの写真を送り、今年は気のせいかサクラがいつになくキレイな気がすると書いてやったら、長女も本当にそう思うと返してきてくれた。長い寒さを耐えてきたからこその美しさなのだろうか。
今日は浜松まで日帰りしてきた。10日ほど前にボンボリのようにほのかなピンクに彩られていた里山も、まだその名残を残してはいるものの、緑が一段と鮮やかになってきているように思う。それに今日は見事な快晴。山々の緑もひときわ映える。
ヤマザクラの季節もそろそろ終わり(新幹線の車窓から).JPG
〔ヤマザクラの季節もそろそろ終わり(新幹線の車窓から)〕
ただ今朝はかなりの冷えこみで、日中も風が冷たかった。日射しはもう初夏といってもよいくらいなので、日向に出ると文字通りひなたぼっこの暖かさでぽかぽかと気持ちがいいのだが、日陰はコートが欲しくなるくらいひんやりとしている。

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今日は往復ともE席。浜松までだと、京都からひかりで1時間と少し。往きは朝早かったこともあって半分うつらうつらしながら読書タイム、帰りは仕事をしながら来たら、あっという間に京都に着いてしまって、あまり景色を見る暇もなかった。
でも、ほんの一瞬だが琵琶湖の向こうの山に沈みかける太陽を撮る機会があった。鮮やかな橙色に思わず顔を上げたら、まさに沈まんとする夕陽が眼に飛び込んできたのである。逆光のしかも高速で動いている車内からの撮影は、iPhoneのカメラではなかなかうまくいかない。それなりの写真にしかならなかったが、目に焼き付いている美しさの片鱗だけは伝えてくれていると思う。
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〔比良に沈む夕陽(米原付近から)〕

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浜松から新幹線に乗るとき、自動改札に切符を通すと、なぜかこの切符はまだ使えないといって、改札が開かない。そんなはずはない、今朝京都の自動販売機で買ったばかりの切符なのに。列車が間違っている訣でもないし、変だなあと思って、よくよく切符を見ると…… 
なんと明日の切符ではないか。今日の切符として買ったはずなのに。理由はわからないが、今はそれを詮索しても仕方ない。帰ることを考えなければと、急いでみどりの窓口に飛び込んで、あと10分というところで何とか無事今日の同じ列車の、それもE席の切符に代えてもらうことができたのだった。
1時間ほど前に駅について、スタバでひと休みし、お土産も買い込んで、さあ、と改札を通ろうとしての出来事である。いったいなにをやっているのやら。でもまあ、なんとか無事帰寧できたので、よしとすることにしよう。最初に書いた長女からのサクラの写真は、無事奈良についてバスを待っている間に、まるで頃合いを見計らっているかのように届いたものだった。切符を買い間違えたことなどもうすっかり忘れて、ほっこりとした気持ちになって家路に就いたのである。
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〔街路樹の間で満開のヤマザクラ。プラタナスの街路樹の間で、樹形が違うので漸く区別できる程度だったが、強剪定を繰り返す街路樹を横目に、いつもまにやら抜きん出た丈の風格さえ感じさせるようになってきた〕
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2017年04月16日

新幹線南側車窓のサクラ

先週、昼間の新幹線で上京する機会があった。今回は久し振りにA席である。
新幹線ではゆっくり景色を楽しむというわけにはいかないものの、それでもやはり車窓の景色は旅の楽しみの一つである。しかし、最近は、新幹線を使うにしても夜間の移動が多いし、昼間の場合もE席かD席が普通だったので、富士山を遠望することはあっても、南側の車窓は本当に久し振りだった。
A席を利用するのが少ない一番のわけは、やはり何と言っても何かの時に出にくいことである。A席から通路に出ようとすると、B・C席の2人の方を気遣わなければならない。声を掛けること自体は別にどうということはないのだけれども、疲れて寝んでいられる方もあるし、PCを広げて作業をしていられる方もある。ぼくが無理に出て行こうとすると、起こしてしまったり、作業の中断を余儀なくさせてしまったりということになる。それを思うとつい気後れしてしまうのである。
逆に、E席だと電源があるのでバッテリーを気にせずPCの作業が出来るし、出るにしてもD席の方だけに声を掛ければよい。E席がベストなのである。次がD席、その次はやはり通路側のC席となる。B席は電源はないし、通路には出にくいし、なによりも両側に他人がいるということで、一番避けたい席である。微妙なのは実はA席で、電源があるという点では条件はE席と同じなのだが、先に書いたような出にくさが席を選ぶネックになってしまうのである。
A席には他にも利点があるにはある。南側の景色のよさである。富士山は見えないが、海が見える。開けた景色という点では南側に勝るものはない。景色を堪能するという点では、A席の魅力は捨てがたいのである。それで学生時分まではE席よりもむしろA席を選ぶことが多かった。しかし、年を重ねるにしたがって、南側の明るさがかえって苦痛になることも起きるようになった。ぼく自身がPC作業をするのに明る過ぎるというのはもちろんなのだが、ぼく自身は景色を見ていたくても、内側のB・C席の方が、特に日の低い季節には直射日光が入るのを嫌われる場合もある。そんなときは意に反してブラインドを下げる必要が生じる場合もあるのである。そんなわけで、一人で乗る場合には、極力三人掛けのA・B・C席を避けるようにしていたのであった。
ところが、今回はE席を取ろうとしたら満席で、さてどうしようと考えた時、ふと電源のことだけが頭をかすめて、A席を選んでしまった。そんなに暑い季節でもないし、南側でもそれほど支障はあるまい……。

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こうして偶然座ったA席であったが、これが大正解であった。京都を発って琵琶湖東岸の山寄りを駈け抜ける車窓に飛び込んできたのは、ピンクのぼんぼりで飾ったような里山だった。平地に島のように浮かぶ山々の新緑に、数え切れないような淡いピンク色が浮かぶのである。こんなにもたくさんのサクラの木があったのである。絵のようなとはまさにこのことだと思った。手前の平地にも、川添いなどにソメイヨシノの鮮やかなピンク色が並ぶ。明らかに植樹したサクラである。それに対し、里山を染めているのはヤマザクラであろう。色は一層淡いが、一本一本がそれぞれの場所で懸命に咲いている。高速で通過するだけでは本当に勿体ない景色だった。
米原を過ぎて琵琶湖に別れを告げてからも、あちこちで里山を点々と彩るサクラに遭遇した。車窓はまさに満開のサクラに彩られていたのであった。この季節にA席をとって昼間の新幹線で上京できたのは、偶然とはいえ幸運なことだった。行き着いた東京も、既に満開は過ぎていたとはいえ、まだ葉桜とまではいかず、遅い花を充分楽しむことができた。
醒ヶ井・柏原間付近の里山のサクラ.JPG
〔醒ヶ井・柏原間付近の里山のサクラ。湖岸のサクラは見惚れているうちに撮り損ねてしまった。米原を過ぎて、関ヶ原に差し掛かってから思い付いて撮った1枚。思いがけず東海道線の列車が写っているので、だいたいの位置が想定できる。湖岸の里山はこんなものではなかった。この何倍ものヤマザクラに彩られていた。〕
東京芸大前の見納めのサクラ.JPG
〔東京芸大前の見納めのサクラ。花見の季節は過ぎた感じだが、それでもまだ充分花を楽しむことができた。〕

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今年のサクラは、何故か散る花びらがあまりめだたない。例年花びらが道路を埋め尽くすような記憶があるのに、今年はどうも様子が違う。赤っぽい葉が萌え始め、花のピンクがそれに埋もれて目立たなくなってきているのに、花びらが散り敷くようにはならない。何度か桜吹雪には出会ったので、少しずつ風に飛ばしているのだろうか。回りの木々のも様子も違うように思う。いつもの年ならサクラが終わってから新緑が始まるのに、今年はサクラがまだ終わりきらないうちにやわらかな緑が溢れ始めている。まるで北国の春のようだ。
ここのところサクラの記事ばかりが続く。若い頃はサクラが嫌いだった。ましてお花見などもっての他だった。しかし、年のせいだろうか、素直に美しいと思えるようになった。ことに震災以降はそうである。斜に構えずともよいではないか、毎年懸命に咲くサクラを見ていると、そう思うのである。あと何回サクラを見ることができるだろうか、そんな思いも頭を過ぎらなくはないのだが。
芽吹き始めたサクラ.JPG
〔奈良に戻ってからの近所のサクラ。葉が芽吹き始め、木全体が沈んだ赤色になってきている〕
タグ:季節 鉄道
posted by あきちゃん at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

満開のサクラに思う

サクラがほころび始めた途端に天気がぐずつき始め、祈るような気持ちで眺めていたのだけれど、幸い雨も時折泣き出す程度で強くは降らず、満開を迎えようとしているサクラを散らすほどにはなっていない。むしろサクラの開花を慈しむような降り方である。
止み間を縫って、一昨日の夕方は家内がPPを連れて般若寺のサクラを見に散歩に連れて行った。夜中はそこそこ降っていたようだったが、昨日の朝方には小康状態となって、薄日も射し始めた。それでも11時前には再び泣き出してしまった。気温も上がって20度に達し、異常な湿気のせいか駅の地下通路は汗をかいた状態になっていた。
午後は再び小康状態だったので、夕方暗くなる前に、バス停のサクラと般若寺のサクラの花見がてら、今度はAGを連れて散歩に行って来た。
どちらも見事だった。空がどんよりしているので、背景によって引き立てられるというのではないから、かえってサクラそのものの美しさが目立つような気がした。ほんのりとピンク色の染まったほとんど白と入ってもいいくらいの花が、枝すらも隠すように一斉に開く姿は、純粋に美しいと思った。
雨にも負けず満開を迎えたバス停のサクラ.JPG
〔雨にも負けず満開を迎えたバス停のサクラ〕
午前中に平城宮跡で見た、見慣れた2本のサクラも、今年は取り分け心に滲み入る美しさだった。満開にはまだもう少しというところだったが、ピンク色というにはあまりに淡く、白といえるほど純白でもない花を開くという一点に絞って集中させるその生命力に圧倒された。これならちょっとの雨など痛くも痒くもないかも知れないと納得する。
般若寺裏のサクラもバス停のサクラも、何本か寄り添うように一塊になって咲いている。それに対して平城宮跡の第二次大極殿脇のサクラは、一本ずつ単独で咲く。ちょうど東西対称の位置にあるから、意図して植えたものに違いない。朝堂院の東西には一定の間隔でサクラが植えられていてそれはそれで見事なものだが、ここへ来るといつもこの2本の孤高のサクラに魅かれるのである。
いずれも一本で思う存分枝を伸ばしているので、多分通行の支障を考えてのことだろう、最近は通路に面した方の側を少し伐採されてしまい、ややアンバランスな樹形になってしまった。俗にサクラ切るバカともいうので心配していたのだが、取り敢えず何事もなくホッとしている。ソメイヨシノは木としての寿命が60年程度だと聞いたことがある。これらの木がどのくらいの年齢なのかは知らないけれど、それまで思う存分枝を伸ばして咲き続けてほしいと切に思う。
平城宮跡のサクラ(東側).JPG
〔平城宮跡のサクラ(東側)〕
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〔平城宮跡のサクラ(西側)〕
サクラが意外と早くに花を付けることも最近知った。西大寺の秋篠川沿いにサクラの若木が植えられたのは何年前だっただろうか。最初はそれこそ棒のような苗木で、はびこる雑草に隠れてしまいそうで可哀想だったものが、数年で花を付けるようになり、その可憐な姿に打たれたものだった。それが毎年着実に成長しここ2、3年目に見えてサクラらしくなってきた。地域の方々のたゆまぬ努力のたまもので、頭の下がる思いで毎日の通勤途上を楽しませてもらっている。
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〔西大寺の秋篠川添いの若いサクラ〕
こんな若いサクラも、平城宮跡のそろそろ壮年を迎えつつあるであろうサクラも、若草山の中腹をほんのりと彩るヤマザクラも、今年はなぜかみな例年になく美しい。

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さて、BWV1の新しい演奏を聴いた。ノラさんのブログで大推奨の、エリック・ミルンズ指揮、モントリオール・バロックの演奏である(BWV1についてはこちら、CD全体についてはこちらこちらをご参照ください)HMVで註文してから数カ月待っても全く入る気配がない。ほかの通販も見てみたが同様でもう入手は諦めていたのだが、たまたまAmazonで検索したら、あろうことかまだ新品の在庫があるではないか。比較的安価な海外からの取り寄せも複数載っていた。この数ヵ月の日々はいったい何だったのかと、価格はHMVの割引価格に比べると随分割高ではあったが、背に腹は代えられないので註文したら、翌日早速届いてしまった。いやはやほんとうにこの数ヵ月はいったい、とうれしいやら呆れるやら……。
Cantatas For Maryという、マリア関連の祝日のカンタータを集めた、それこそ夢のような選曲の1枚である(ATMA-SACD22402)。BWV1、82、147というラインナップで、ちょうどこれと逆順で並べられていて、BWV1はこのCDのトリを務める。
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〔モントリオールバロックのBWV1を含むCDのジャケット(ATMA-SACD22402)〕
実は、OVPPという合唱パートを一人ずつで受け持つ演奏を聴くのはこのCDが初めてだった。ちょっと不安もあったのだが、実際に聴いてみるとそんな心配は吹っ飛んでしまった。クリアで透明な推進力に溢れた演奏は、これまでのバッハのカンタータのイメージを払拭する清新なものだった。言葉にするとこんなありふれたことにしかならないけれど、楽器がどうとか演奏法がどうとかいう範疇だけでなく、バロックとかクラシックとか(こういう並列は変かも知れないが)いうそんなジャンルをさえ突き抜けた、純粋に音楽として美しい、心に呼びかけてくるものを、やや大袈裟かも知れないけれども感じたのである。
もちろんこれまでに聴いてきたたくさんの素晴らしい演奏を否定するものではけっしてない。それらをのすばらしさを踏まえた上で、こういう行き方、いや今これを書いていて思わず誤変換してしまったのだけれども、こういう「生き方」もあったのだと、感極まってしまったのである。
一人のちっぽけな人間がこんなことに心を動かされている間にも、サクラは雨にもめげずに一所懸命に咲き誇り、季節は着実にその歩みを進めてゆく。このブログを書き始めた6年前のこと、そしてこの間のことを、ふと思ってしまう。
posted by あきちゃん at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする